08クリエイター・オブ・ザ・イヤー賞 受賞者が語る「私が信じるクリエイティブの真髄 お見せします。」に行ってきました。
第61回JAAAクリエイティブ研究会 08クリエイター・オブ・ザ・イヤー賞 受賞者が語る「私が信じるクリエイティブの真髄 お見せします。」に行ってきました。
スピーカーは、博報堂のCD&AD鈴木克彦さん、アサツーのCD&コピーライター三井明子さん、電通のCD&コピーライター磯島拓矢さん、電通のCD&CMプランナー澤本嘉光さん。
鈴木さんは、暴君ハバネロの仕事を中心に解説。時間が押してスーツカンパニーなどほかの仕事の紹介は少なめ。(ハバネロのコンテンツは、まだ残ってるものもあり。「暴大入試」は面白いのでこちらからどうぞ)
三井さんは、「私のあきらめの悪さ」というテーマで、自身の経歴(美大→美術教師→アーティスト→広告プロダクション→化粧品会社宣伝部→外資系代理店→ADKだったかな?)や代表作の味の素のラジオCM、オンワード23区の仕事を紹介。味の素のラジオCMでは採用案2案ほどのためにCM企画案500案、23区の仕事では採用コピー23案のためにコピー3000案書いたというのが印象に残りました。異論はあろうが、やっぱりコピーがうまくなる近道は量を書くしかない。自分の経験からも。
磯島さんは昔からコンスタントに渋い仕事をされてて、今回初めて話が聞けてよかったです。内容は、不景気のこの時代にどうするか。日立企業広告「つくろう」、ホンダオデッセイ「いいクルマが好きだ。男ですから。」、サントリー「カッコイイ入門。」、旭化成「昨日まで世界になかったものを。」などを紹介しながら「差別化から活性化へ」「差別化から社会化へ」というテーマで、今の時代は商品の小さな差を声高に叫ぶのではなく、例えば、クルマに乗ることよさ、酒を飲むことのカッコよさなど、そのカテゴリー全体を底上げする広告が必要なのではという提言。
澤本さんは、どんな講演にしたらみんなに楽しんでもらえるかで今回は考えたと、ソフトバンクの白戸家(ホワイト家)のCM中心に、制作時間の制約、クライアントの注文という制約など、具体例を交えながら「制約こそがクリエイティブを生む」という話でした。「みんなが思ってるよりソフトバンクの仕事は注文も制約も多くて大変で『いいな澤本は、好きなことばっかりやって』とまわりから言われるほど『ああ、自分の苦労がCMに出てないな。それはいいことだ』と思ってる」と言ってたのが印象的でした。事実、話を聞いてると孫さんのオーダーは、なかなか無茶なものも多かった。でもそんな環境から面白いCMを作れるからこそ、クリエイター・オブ・ザ・イヤーなんだな。
それにしても、眞木準さんが亡くなったことを誰も一言も口に出さなかったのは意外でした。眞木さんとは3回くらいしか話をさせてもらったことはありませんが、間違いなくコピーライター黄金時代のスターの一人だし、憧れてる人も多いだろうし、ちょっと早すぎるんじゃないかととても残念です。眞木準さんの仕事では、いま思いつくものでは、コピー単体では「恋が着せ、愛が脱がせる。」(伊勢丹)、企画としては「10歳にして愛を知った。」(ライオン事務器・ライオンファイル)、CMはアンディーウォーホルの「イマ人を刺激する。」(TDKビデオテープ)が好きです。合掌。
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ランキング頼りの人生に疲れた
遠かったですが初めて銀座のキルフェボンに行ってきました。フルーツタルトの有名店です。たまにはおいしいものでも食べようかと思って。食べログで検索したら、銀座付近の食べ物屋すべての中で人気ランキング1位だったから間違いなかろうと。
そして結果は、まず(アルバイトの?)店員さんの対応が、ちょっと変でした。レジ付近での予約の対応とか案内とか。特に自分はクレーマー体質&がんこオヤジ体質でもないのですが、一緒に行った人も同じような事を言ってました。たまたまそういう店員さんだったのか?
肝心の味は、、、そもそも食べたいタルトを頼んだら「それは売り切れです」「あ、それも売れきれです」と。並んでるときに言ってほしかった。キルフェボンではそういうのが常識で、お客のほうも早く行かないと売り切れというのは常識としてわかってるということなんでしょうか。
たとえば、田舎からキルフェボンが楽しみでそのためだけに銀座まで来た人が、やっと憧れのタルトを食べられると思ったら注文のときになって「売り切れです」って、それって東京残酷物語なんじゃないでしょうか。
そんなわけで、仕方なく決めたいちごタルトという選択が微妙だったのか、これが銀座中の食べ物屋でナンバーワンの味か・・・どこがやねん!と物思いにふける午後7時。一緒に行った人も、そんな自分の表情を読み取って「タ、タルトはしょせんタルトだからね。それがタルトの限界だよ。ピエールマルコリーニのパフェのほうが美味しいかもよ」と言ってました。
気が付けば、自分の毎日がいかにランキング漬けであることよ。何か食べに行くときは食べログランキング、本を選ぶときはamazonベストセラーランキング、モノを買うときは楽天人気商品ランキング、映画を見るときはYahoo!映画ユーザーレビューランキング、ネットの記事を読むときは、はてなブックマーク人気エントリーランキング。いいのかなあ、こんなことで。
もっと若い時はこんなんじゃなかった。何でも自分の本能で選んでた気がする。就職してからはとにかく時間がないから、ランキングで選ぶしかなくなった。それって、就職で人事の人が学歴の高い人をとりあえず採用するのに似てると思いました。
要は確率の問題。東大卒を採用しておけば仕事ができる「確率が高い」。人間も食べ物も買い物もランキング上位を選んでおけば、当たりの「確率が高い」。でもそんなのはただの確率であることは誰もがよくわかっている。ランキング頼りの生活をしてると自分の脳が思考停止に陥ってるのがよくわかる。ランキングに従っておけば楽だし。
でもしょせんランキングって多数決なわけだし、多数決がつねに正義だなんてありえない。みんなの評価が高くても面白くないと感じるものはいっぱいあるし、その逆もいっぱい。これからもランキング頼りの人生なのかなあ。カンだけを頼りに、おいしい店探ししてる時間ないし、昔みたいに一日中、大型書店や中央図書館でぶらぶらする時間もないし。
だから、若い人は若いうちに、時間のあるうちに、ランキングという名のビッグブラザーに操られる人生じゃなくて、誰かが褒めたからじゃなくて、自分がいいと思えるものを選ぶ本能を鍛えておいたほうがいいと思います。村上春樹さんの「1Q84」はランキング関係なしで発売日に買いましたけどね。
注意して
初めて親子関係をテーマにした作品
村上の小説は「ソーマ」のようなものだろう
一言では到底語れない
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はてな匿名ダイアリー「ラーメンが松本人志」の感想
ラーメン=松本人志論の感想。
「誰かがラーメンを語り出した時からラーメンはファッションツールになった。お笑いもしかり。あるお笑いに対して自分はどういうスタンスを取るかで自分という人間を値踏みされる。だからいつも理屈を考えないといけなくて、うまいラーメンをただうまいと食べること、面白いものをただ面白いと笑うことが難しくなったのが今の時代」のようなことが書いてあった。
ということは話を一般化すると、何かに対して薀蓄(うんちく)を語ったり批評したりすると、その対象物はファッション化するってことなんでしょうか。ということは、例えばファッションという言葉にいちばん近い、服のファッションも薀蓄とか批評があるからファッション足りえてるのか。
ということは、薀蓄や批評なくしては服のファッションもファッションとして成り立たないってこと?それじゃあ、服や服のデザインそのものの価値ってどこに行ってしまうんだろう。直感的に「この服いいね」という感覚には価値がないんでしょうか。あ、一人一人の感覚に価値はあるけど、薀蓄や批評がないと、それが流行になることはないってこと?
ファッション化というのは、要するに流行化ってことで、流行は多数決で決まるから流行であって、この元の投稿を書いた人(元増田)は、そういうふうにファッション化して消費されていくよりは、「この服いいね」的な、もっと直感を大切にすることが大切だと言いたいのか。
元の投稿を読んだときは、言いたいことがなんとなくもやーっと思い浮かんだのですが、書き始めたら支離滅裂で自分でも訳わかりません。考えがまとまったらまた書き直します。
しつこく冗長な文章が...
「美しい」を感じやすい人向け
膨大な論評
美しいがわからない?
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こんちには みさなん おんげき ですか?
こんちには みさなん おんげき ですか? わしたは げんき です。
この ぶんょしう は いりぎす の ケブンッリジ だがいく の けゅきんう の けっか
にんんげ は もじ を にしんき する とき その さしいょ と さいご の もさじえ あいてっれば
じばんゅん は めくちちゃゃ でも ちんゃと よめる という けゅきんう に もづいとて
わざと もじの じんばゅん を いかれえて あまりす。
どでうす? ちんゃと よゃちめう でしょ?
ちんゃと よためら はのんう よしろく
ネットの掲示板に貼り付けてあったんですが、これはすごい。え、なにが?と思った人は、ゆっくり読み直してみてください。これ広告のアイデアとして使えるなあ。早い者勝ちですけど。
と書いてたら、早くもあちこちで話題になり始めてるみたい。というわけで、もう広告のネタには使えません。
本当にオリジナルのアイデアというものは存在するのか?
前エントリーに対して新聞広告.comからたくさん来ていただいたのにいきなり電動こけしの話で申し訳なく。今回は電動こけしに毛が生えたくらいまあまあマジメです。
ほかのブログさんの「天才になれる秘密」というのを面白く読みました。要は「ニュートンやアインシュタインのような天才達も先人のアイデアをパクって偉業を成したのだ。だから、パクって自分なりにどうアレンジするかが大切で、パクリに罪悪感のない人のほうが天才になれる可能性が高くなる」というような内容。
パクリ論争については、2ちゃんねるでのパクリアーティスト叩きなどにみられるようにネット世論では否定論者が優勢になる傾向がありますが、この「天才になれる秘密」のコメント欄では比較的肯定論が多くて意外でした。ブログを書いた人が文章力のある人だからみんなが説得されたのかも。
とはいえ、「多くの天才も所詮他人のアイデアを換骨奪胎(かんこつだったい)してるにすぎない」というのは極論だとしても「多くの新しいアイデアは既存のアイデアの組み合わにすぎない」というよくある意見に自分もとりあえず賛成です。それから、「たとえ人のアイデアをパクったとしても、そこには必然的にその人なりの新しい要素が加わる。それが個性というもので、その新しい要素が増えて原型をとどめなくなった時点でパクリはパクリでなくオリジナルになる」というよくある意見にも賛成です。
その「パクったのに結果としてオリジナルに化ける」様子の説明を偶然ほかのサイトで見つけました。仕事の調べ物をしてただけなのに、どうしてそのサイトとめぐり合えたか自分でも不思議ですが、必要なものが向こうから集まって来ることってよく起こりませんか?自分は起こります。とにかく、作家の高橋源一郎さんの講演会から抜粋です。
これに味をしめて今度は大学で同じように授業しました。小学生と大学生は暇でいいんですが,中・高は難しいでしょうね。忙しいから。ボクは慶応大学の文学部でたぶん「文学1」というような味も素っ気もないタイトルの授業で,小説を書くという目的を悟られないように小説を書かせるという画期的な授業をやりました。
小説を書くという目的ではみんな構えてしまうし,そもそもそういう目的で授業を受けに来ていない。そこで気づかぬうちに小説を書かせるにはどうしたらいいか,いろいろ考えました。
一つは翻訳です。 正確には翻案。近代文学の古典を読み,日本語から日本語へ翻訳してもらいました。ただし時間も現代に動かすことで翻案です。第一回は「舞姫」を翻訳してくれといいました。そうすると 8割はただの現代語訳。2割くらいの鋭い人はドイツに行くのが飛行機だったり,舞姫がドイツのエロチックダンサーになっています。それでいいです。つまり鴎外が現代に生きていたらどう書くかという試行実験です。
次に「坊ちゃん」です。半分くらいの人はどうしていいかわからない。一方で15%から2割が予想を超えて進化していくんです。面白かったのが樋口一葉の「にごりえ」です。非常に典雅な古典文学で設定が明治10~20年代の色町の話ですからこれをどういうふうに処理するのかと思ったら,面白いんですが,3〜4割の主人公がキャバクラなんです。しかも10人くらいは滅茶苦茶描写が細かい。明らかに当人がやってる?みたいなんです。
原作の冒頭は 2人の娼婦が語り合うシーンです。この会話部分がオカマのホステスが性転換について語るように翻案しているんです。 フェミニズムの観点が付加され思想的進化を遂げています。
田山花袋の「蒲団」は 大学教授と女子大生の話ですが,ほとんど原型が見えないほど変化させる奴がいるんです。書いた学生を呼んで質問したら,あの二人の関係をつきつめるとこうなるんだと説明してくれるんですが,これは「蒲団」がSFになって宇宙人がでてくるので,どこがどうなっているのかわからないんです。しかし話の構造は保たれているんです。ここまででほぼ最終段階なんですが,何人かの学生の作品は,オリジナルが何かを言わないとわからない,あるいは言ってもわからない。つまりオリジナルになっているんです。
受講生は400人くらいが最後は150人になりましたが,そのうち3人から5人は小説の新人賞に確実に受かります。ただし当人はその気が全くありません。つまり,一方で小説というものへの通俗的理解があります。だけど自分は関係ないなという一方で,高い読み書き能力(リテラシー)が備えられているわけです。
ある程度以上のセンスとリテラシーを持っていれば,ある程度の小説は書ける。惜しむらくは,それが小説能力であることを本人が知らない。さきほどの小学生もそうでしたし,今の大学生もそうでした。この慶応の授業でも小説家志望の学生はダメ。これが,文学・文学史・小説への誤解です。
なかなか見えませんが,小説を書く能力があるのに書かない子,しかも当人でさえも気がつかない。これを見つけるためには,何が小説を書く能力なのか,それは何に由来しているのか,どんな条件でその能力が開花するのかを本当に知らなくてはいけない。同じような授業を千葉大学でもやったんですが,我に優秀な生徒と時間を与えよ! そうすれば小説家は作れちゃうと思ったんです。
では実際にはなぜ行われていないのか,これはボクたちがいくつもの,幾重もの誤解に晒されているからに他ならない。誤解が常識となっている世界では,小学生でも小説が書けるということが受け入れられにくいと思っています。
面白すぎ。大塚英志さんも小説の書き方の一つとして似た方法(村上龍の小説の世界設定を元ネタに自分の弟子に小説を書かせて添削してました)を紹介してましたが、高橋さんのすごいところは生徒に説明せずにやったということと、古典を翻訳させることで自然と超訳される状況をつくったことなんでしょうね。いや、ほんとに面白い。この講演は他の部分も面白いのでよろしければどうぞ。
高橋源一郎講演会実録--作家の高橋源一郎さんが8月29日(金)に県立広島女子大学で,テーマ「作家の作り方」で講演を行いました。--
「模倣」と「オリジナル」について突き詰めていくと果てしなく難しくなっていくので、興味ある方はボードリヤールとかベンヤミンとか大塚英志さんとか東浩紀さんを読むと面白いかも。
パクリと言えば広告業界もパクリの宝庫ですが、昔は「コピーが上手くなりたかったらコピー年鑑のコピーを10年分、ぜんぶ原稿用紙に書き写せ」と言われて、実際にやってる人も多かった。それによってコピーとか企画のパターンをカラダで学習していったのだと思います。優秀になるか平凡で終わるかは、その学習成果を自分自身で咀嚼して「新しいアイデア」に見せられるか、そのまま引用して「パクリかよ!」と言われるかのセンスの差かもしれないです。
技術は後回し。技術が使いこなせる小説家という人種にひとっとびになろう
この本が一つの小説のよう
「著書が書いた」ことは間違いない!
面白すぎ!!
タロット占いで小説
物語の構造
物語の構造を説いたもの
物語の体操
眠てぇ…。
実用書として使える
物語づくりの黄金律か?
有益な情報が詰まっています
90年代の出発点
たしかになつかしいタームがいっぱいでてくるが
未だなかなか見ない消費社会論
欲望と差異を生み出す装置
消費社会論の古典
追悼……
情報の担い手は今それぞれの手に
本書の位置づけ
現代にも通じる問題意識
よくぞ紹介してくれました
内容というより著者の問題か?
「複製技術時代の芸術作品」の一点絞り
これはいかんのでは?
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saku sakuの木村カエラの顔が電動こけしにしか見えなかった件
(TV番組の)saku sakuがきっかけで本格ブレイクした木村カエラが、先週久しぶりに一週間特別パーソナリティとして戻って来たので録画して見ていました。
もともとファッションリーダー的ポジションでやってるので髪型は結構ころころと変わるタイプだと思うのですが、そのときのカエラ嬢のボブみたいなヘアスタイルがどうみてもバイブレーターに付いてる顔に見えて卑猥で仕方なかった。まあ、そんなこと言えば『リルラリルハ』のジャケットのときの髪型もそうなんですけども。
電動コケシって、なんで取って付けたみたいに先頭部分が人の顔になってるんですかね。そりゃ、こけしだからか。でも顔って必要?
TCCの用意ぜんぜんしてないのに、応募の当日にこんなこと書いてる場合じゃないのかもしれない。
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「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」に行ってきました
前から行きたかった体験型イベントの「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」に行ってきました。
「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」とは・・・
ダイアログ・イン・ザ・ダークは、まっくらやみのエンターテイメントです。
参加者は完全に光を遮断した空間の中へ、何人かとグループを組んで入り、暗闇のエキスパートであるアテンド(視覚障害者)のサポートのもと、中を探検し、様々なシーンを体験します。
その過程で視覚以外の様々な感覚の可能性と心地よさに気づき、そしてコミュニケーションの大切さ、人のあたたかさを思い出します。世界25か国・約100都市で開催され、2009年現在で600万人以上が体験したこのイベントは、1989年にドイツで、哲学博士アンドレアス・ハイネッケの発案によって生まれました。
1999年以降はボランティアの手によって日本でも毎年開催され、約3万6千人が体験しています。
いま見たら公式ホームページにちゃんと書いてあったのですが、自分は事前にそこまで読んでいなくて「まっくらな所を歩いて行く」くらいの理解度でした。なので、参加前はどうして「ダイアログ=対話」なのかなあと思ってました。
参加してわかったのですが、完全な暗闇に身を置くことで「視覚を失って初めて得る感覚を体験する」っていうのは確かにそうなのですが、むしろ「暗闇における参加者8人(+アテンド1人)とのコミュニケーションの新鮮」さの要素が大きくて、だから「ダイアログ」なのかと、わかりました。
自分が参加したグループは比較的おとなしい人が多かったので、積極的な人が多いほどより楽しめるはず。とはいえ、どんな8人になるかは申し込んだタイミングしだいなので運任せ。あっというまに1時間経つので恥ずかしがらずに早めに自分から積極的にコミュニケーションをとっていくのがいいかと。
1ユニットの参加が8人という少数であることや、その割に時間がかかることなどで入場料はやや高いと感じると思いますが、まだの人は絶対におすすめ。暗闇の初体験とか、視覚障害者とのコミュニケーションとか、視覚障害者の気持ちがわかるとか、アートとアミューズメントと社会活動が微妙に融合した、そういう意味でも興味深いイベント。具体的に書きすぎるとネタバレになってしまうので、あとは自分のカラダで確かめてみるのが一番いいです。
毎回チケットがすぐ売りきれるので行けなかったけど、やっと行けてよかった。今回はたぶん初の長期開催なので後半のチケットはまだ余裕で買えると思います。もう1回行くかなあ、高いけど。
「ほぼ日」にも詳しく載ってた
(内容は毎回微妙に違うようなので参考程度に)
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